2/09/2024

宗功寺跡 (2)・大石神社・永源寺跡・円明院跡・島津豊州家関係石塔群


2023.12.28 (4)

出水から宮之城、祁答院を通って鹿児島市内へ戻る。以前、休館日で開いてなかった宮之城歴史資料センターへ。テラスから虎居城跡、八女の瀬を見せてもらった。



川内川に吊り橋を掛ける計画があるようで、実現したら城跡が整備されるのではないか、と仰っていた。
また企画展「さつま町と徳川家康」が開催中。宮之城島津家5代 久竹が先代の事績を記した祖先世功碑に、東照大神君(徳川家康)と刻まれているとのこと。



せっかくなので宗功寺跡を再訪。1603年頃、松尾城跡に宮之城島津家2代 忠長が菩提寺として宗功寺を創建。松尾城は虎居城同様、祁答院郡司の大前氏が築城したといわれ、北薩に下向してきた渋谷氏との抗争を繰り返したと想像がつく。1389年から渋谷一族の祁答院氏が在城となる。



祖先世功碑を建立した5代 久竹の墓石。台座に彫刻が施された祠堂様式で、中に位牌が安置されている。



宗功寺跡から祁答院町へ向かうが、この機会に遠回りして大石神社に立ち寄った。



祭神は薩摩祁答院の領主だった祁答院良重と島津歳久。書き置きの御朱印は何故か全て10月1日付。




祁答院町へ。黒木小学校周辺には、島津宗家から分家した島津季久を初代とする豊州島津家関係の史跡がある。1634年、宮之城島津家が治めていた黒木の地に、豊州島津家7代 久賀が私領地として帖佐から移った。豊州島津家は後に黒木島津家ともいわれるようになる。

瑞泉山永源寺跡。豊州島津家2代 忠廉が菩提寺として帖佐に創建。領地替えとともに飫肥、平松、黒木と移されていった。




元は岩剱神社前にあった円明院。重富島津家を興した島津忠紀が平松を領したことにより、豊州島津家12代 久起が1739年に黒木へ移し祈願道場とした。
廃仏毀釈で廃寺となったが、仁王像は破壊されず地中に埋められ、後に掘り出されたため完全体で残っている。
また岩剱神社門前の石橋は、円明院橋といわれる幕末に架けられたもの。




愛宕神社の裏手にある島津豊州家関係石塔群。



ここに廃寺となった永源寺、円明院から一族の墓石が移された。自然石の墓は豊州島津家9代 久邦の弟 島津久可のもの。



月桂浄心大居士と法名が刻まれた小石塔は、100年忌に供養塔として建立されたといわれている。墓石は上部が剥落して解読は不可能だが、平山月桂浄心居士と法名が刻まれていたらしい。平山とは久可が平山氏の嫡嗣に入ったことによる。

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